ローゼンタール 」
スウェーデンはストックホルムにある庭園。

なんと言ってもその魅力は芝生の上に寝っ転がって

おいしいケーキを食べたり、ジュースを飲んだり

眠ったり、大きく息を吸ったりしたくなったり

人の手が入っている場所だけれどもなんだか

のんびりしたくなる、そう、庭ってそういうもの

だよなということが体現できる場所。

北欧のこうした場所にあるものは、

きちんと時間が経ち使われ続けてその

場所の空気がつくられているもの。

時にそこで学んだものを活かそうと

かたちから入りそうになるが、この質を

つくってるものは時間だということを

忘れてはならないなと思う。

ダーラフローダのとある宿 」
スウェーデンのムーラ地方にある小さな村。

この小さな村にあるDala-Flada Vardshusという

宿にはオーナーによって選ばれたものが

心地よい調和とともにあふれていて

その感覚の根底には意匠的な好みとか

そういったものを包括するそれぞれのものが

少しづつ魅力を発する関係性がある。

それは雑音のようなもので、分かりやすく

受け入れる対象以外のもの、余計なもの

たちがお互いを補って美しくその場にある。

この余計なもののあり方は建築を設計する上で

いらないものとされがちだったのだけれども

自分が仕事をする上で居心地の良い場所を

求めていくと答えがここにある気がする。

設計事務所の仕事の写真をみていると

かっこいいななんて同業者ながらに思う。

そのかっこいい状態をつくるために、

コンセプトがあったり、ロジックがあったり

それをもとに組み立てられた分かりやすい

イメージがある。もちろんイメージと

いうものはとても重要でそれがないと

見知らぬ誰かに伝わらない。

さて、イメージは実体でありながら虚像

でもある。建物を見に行くとそのもの

のあり方が話と違うなということは山ほどあって、

建築という学問としては素晴らしいのだけれど

そのずれがとても気になってしまう。

ずれがないもの。それってなんでしょうね。

民家やお寺や古いものをよく見に行く。

ノスタルジーを感じていいというわけではなく

ものとしてのあり方にずれがないなと思う。

でも声高にこうつくったなんて主張はしていない。

強いて言えば

積み重ねられた暮らしがかたちにあらわれている

だからもののあり方にずれがない。

これがここには必要である。

そうした判断基準がこの宿にあるすべてのものに

感じられるのが心地よい。

その判断基準とはなにか?というと

料理はその土地でとれた食材を使うということや

暮らすことにとって不自然なことはしないという

明確な哲学に支えられている。

その明確な哲学は自分達が

よいと思ったことに実に素直で、

スウェーデンという国やこの

地方で営まれてきた暮らしに対して

尊敬の念が感じられる。

それをかたちにすることはできないし

学問とは程遠い。

でもまあ学問でないと前提を置くと怪しくていい。

学問であろうとすることが科学であるならば

ここの居心地は科学では説明ができない。

ここにあるものは近い関係にあるもの

たちである。その近い関係性が何からでてきたか

ひとつはオーナーの暮らしの感性、

そしてもうひとつは、この村にある。

ダーラフローダという村 」
スウェーデンから電車に揺られ2時間。

Borlangeという町でバスに乗り換え

森や湖を眺めながら40分行くとその村はある。

ムーラ地方の他の村には以前北欧に来た時に

行ってみたけれどここは初めて。

バス停から宿に歩いている時、すでに

空気感が違うことに気づく。

小さな村で敷地はとても余裕がある。

庭はきれいに手入れされていてこの村に

住んでいる人達の日々の暮らしが

丁寧に繕われているのが感じられる。

道にはにわとり専用の横断歩道があったり。

ここで暮らしていることで、人と自然と

動物と、境がないような。

宿で借りた自転車で散歩していると

対岸から牛が4頭のっそりとでてきて

水を飲んでいるといった光景に出くわす。

宿で食べたごはんは地産地消である。

あの料理がなんだかおいしいのは

この空気を吸ってるからなんだなと、

昔は当たり前だったはずのことに気づく。

暮らすことと当たり前のこと。

この村ではみんなあいさつをする。

ランニングしていてすれ違った人。

車に乗ってる人は会釈してくれたり。

庭でお茶をしている人がこちらに気づくと

手を振ってくれたりもする。

自分達の住んでいる村が好きなんだろうなと。

村を歩いていて、ここにあるものは

新しいものではないなと思う。

新しくはないが窓辺にリサラーソンの

陶器がさりげなく飾られていたりしている。

その在り方はなんだか自然で。

お店で買ったトマトをその場でかじる。

なんだか酸っぱいが甘い。

草がぼうぼうと生えたところに

にわとりやクジャクやいろんな鳥がいる。

馬がいたり、豚がいたり。

動物たちがいる場所は自然の一部を

少し囲っているだけである。

この村になにかしら特徴があるとしたら

できるだけ自然なことをしようということ。

その振る舞いはいろんなとこに派生する。

対岸の家は屋根がいろんな方向を向く。

川を眺めるのがきれい。

陽が当たる方に開きたい。

大きな木があればそれに寄り添うようにしよう。

効率を求めたら日本の団地や郊外住宅ができた。

そこには感性がなかったのだろう。

自然に暮らそう。人間は動物なんだから

裸でいいじゃないか。それは不自然である。

自然で素直であることは真似をする

ことではない。今ある環境を受け入れて

自然にあるべき状態を探るということ。

そしてその関係性をつくるには、

ここに必要なものを読み解かないとできない。

この村にいる人達はごく自然にしている。

ここにある環境をしっかりと読み取って

その上であるべき姿を探っている。

そのイメージを真似てない在り方が

なんとも心地よい。

この村のような関係性をつくりたくて

自分は建物をつくっている。

森の火葬場 」
スウェーデンはストックホルム郊外の墓地。

アスプルンドという建築家の仕事である。

ここでアスプルンドがしたことは、

森と丘をつくったこと。

つくったといってもそれは完成したもの

ではなく成長し続けることができるもの。

風景をつくったのである。

ここにあるものは素直である。

ベンチは折れ曲がり座った人たちが自然と

会話がしやすいよう配慮されている。

故人とお別れをする場所である。

設計者は来る人の心に寄り添っている。

穏やかな気持ちになれるよう。

静かな時間が流れるよう。

建築の世界には納まりというものがある。

ディテールと言われ専門の本もあるが

図面を書いてそれがものに置き換わるとき

そこにそれぞれの表現がでる。

鉄は極限まで細くすることができるし

ガラスの枠がないようにみせたりできる。

技術は知識があればなんでもできるらしい。

さて、ここにある納まりはなんだろう。

人が礼拝堂に入るとき気持ちを

穏やかにするため軒先はとても低い。

先端は細くて屋根の存在が強くなる

ことが注意深く避けられている。

雨は入るところだけ濡れなければよい。

縦樋をつけて目立つなら雨は垂れ流す。

逆算していく対象が人の気持ちである。

建築を勉強しているとよく言われる。

線を通した方がきれいだよとか。

もっと細くならないかなとか。

残念ながら最初の問いが抜け落ちている。

樋がない方が心穏やかに礼拝堂に行けるのでは?

目立つと美しくないからではなく。

ものをつくることにおいて

大切なことをこの場所は教えてくれる。

風景をつくったということは森と丘という

景色をつくったのではなく

この場にふさわしいかたちをつくったことで

それゆえにここの空気には、ずれがない。

ゆるやかな関係性のみがある。

目新しいものはとくにない。

そういえばダーラフローダの村だって

そこにあるものは環境を素直に読み込んで

できたものという同じような感覚である。

建築の作法より自分がよいと思ったものに

耳をすましてあげるといいのだと

この場を訪れるたび思う

アアルト自邸 」
アアルトの自邸である。

はじめて訪れたのは秋から冬に

なる寒さが身に染みる時期で

北欧らしい寒さの中に芽生えた

建築の美しさを感じれる時期。

最も影響を受けた建築家の

ヘルシンキ郊外にある自邸である。

初めて訪れた何年か後に夏にも訪れる

ことができ、異なる季節のあり方を

見た時にこの建築や

建築家の持つ感性に多少触れる

ことができた気がする。

北欧らしい寒さの中に芽生えた

建築の素直な美しさ。

アアルトの建築はただ美しい

だけではなく、温かくて

静けさがあって、やわらかい。

それは見た目に木が多いといった

ことや自然素材であるといった

部分からくるものというよりかは

感性の部分であると思う。

その感性の部分をつくっている

ものは自然との関り方である。

それは光や景色の取り入れ方

にもあらわれているし

はたまた構造やプランニング

にもあらわれている。

そしてとても音楽的である。

建築には実に多様な要素が

空間の中にあらわれるけれど

ミニマリズムのように隠すの

ではなくアアルトはさらっと

みせている。ただその見えて

きたものが実に調和がとれていて

美しい音楽のように聞こえるのがよい。

その聞えてくる音の

ひとつひとつがさりげない。

さりげない音だけれども、

今いる場所にあって欲しい音である。

その自然な音を奏でることが

できる判断基準を持った

感性が特徴的である。

美しさは視覚的であることが多い。

しかし多くの場合は力として強い。

情報が過多であるか、情報を

抑制して浮かび上がったもの

の持つ力を最大にするかなど。

そうした技術的に効果を引き出すことを

おもしろいと思った時期もある。

けれどそれはある程度誰にでも

できることと薄々気づくことになる。

そんな時にこの自邸に出会って、

なにも強い力を持たせなくても、

響き合うことで美しい世界が

あらわれるんだ!ということを

知ったように思う。

インターナショナルスタイル

の枠組みにありながら唯一の美しさ

であるということはものの力に頼らず

調和させることにあるように思う。

温かくて静けさのある美しさを

感じ取れるこの場所が、

なにより好きである。

柑橘 」
柑橘がそれはそれは好きである。

特に文旦がよい。

そんなに大きくなる必要ある?という

ぽってりした感じと味の上品さが。

黄金柑もなんともいえずよい。

なによりも、柑橘の色はひとの気持ちを

明るくしてくれる、そこがよい。

 我が家のご飯 」
あまり調味料を持ってないほうで

だいたい塩味中心である。

素朴な味付けがよい。

母が料理が好きだったので自分も

するようになったらしい。

建築というより暮らしを設計している

ので、料理することは大切である。

鉄板 」
鉄板で焼いたものが好きである。

温かさが近くにある

ことはなんともよいことである。

火のある暮らしは素晴らしい。

設計をしている時にそうした温かさ

がにじみ出てくれるよう、

考えながら設計をしている。

がっちゃん 」
がっちゃんのケーキはおいしい。

ただおいしいだけではない。

いつもちょっとなにかを考えながら

つくっている雰囲気がある。

そのなにかはいつもやさしい。

人柄からしか出ないものがある。

建築も人柄がでる仕事である。

北欧家具 」
北欧のヴィンテージ家具はよい。

当時の時代背景で木や職人が

充実してたのだろうなあと思う。

ウェグナーやモーエンセンの考えられた

ディテールも好きだけど。

ノンデザイナーのふつうのものもよい。

木が丸くて、やわらかいのである。

パン 」
無類のパン好きである。

へたしたら建築より好きだったりする。

なので建築を見にいくのと同じくらい各地の

パン屋さんには寄るようにしている。

発酵して豊かな味が出るのがよい。

あの人いつかパン屋をするなと思われている

そのいつかを自分も楽しみにしている。

ルイジアナ美術館 」
好きな美術館は?と言われたら

真っ先に思い浮かぶのはここである。

建物らしきものはなく、自然の中を散策

するように美術品を楽しむことができる。

そして、のんびり過ごせるカフェや広場の

ような場所が印象的で、成熟した時間の

過ごし方を感じれる場所であるのがよい。

北欧に惹かれるのはこうしたのんびりとした

時間の流れ方が自然であるからと思う。

そうした自然や時間との付き合い方が

デザインにもあらわれていて、触れると

ここちよいのだろう。

だからデザインは見た目ではなく感覚を

表現しなければといつも思っている。