料理をつくること

設計をしていると結構制約があって、法規とか予算とか構造とか性能とか・・・まあいろんなことを考えないといけないんですけどそのいろいろをひっくるめながら居心地のよい家をつくろうと考えます。
おいしいご飯がいいなあと思うのは、もちろん制約とかもあるとは思うんですけどその食材と向かい合ってる時間がずっと手を介していて、これくらいの塩分量とか、火入れはどれくらいならおいしいのかとか、刻一刻と自分の個性がそこに現れてくる感覚があるのでいいなあと。
年に1回くらい玉造にある「料理とワイン歩き」にいきますが、とってもおいしい。
きちんとしたフレンチのお店で修行されてお店を出されてるのでクラシックな技術がきちんとあるので食材の可能性がきちんと引き出されている。建築もそうなんですけど技術ってやはり大事だなと感じます。センスにも置き換えれるとは思うんですけどそれは学んでないと出せないものでもあるなと。作り手としてはその材料を使うことに対して自分が使うことでその良さが引き出されるのならそれはなによりもいいことだなと思うし、他の人では見せれなかった世界を見せれることに価値があるんだろうなあと。
うちはよくリフォームをするので古い建物見に行くんですが、建物の現状や図面を見た時になんだこれは・・・と思うことも多く、技術が無くつくられたものってほんとに世の中多いよなあと感じることがほとんどです。それは意匠的なこともありますがそういった目に見えるとこは直るので隠れてる部分、構造とか、性能とか、建物が成り立つことに対しての知識が不足していてただ単に間取りを入れたものだったり、設備の更新や配管の通ってる位置など後々の変化を読み切れてないものだったり、もしこれが料理だったらただただマズイなあ・・・となるんですけど建築は表面的な部分でごまかしが効くのでそういった技術的な部分が見えにくかったりはします。なのでしっかりと考えられてない家に住むと五感が狂ってくるんだろうなあと感じます。その感覚が分かってるからやれないことはやれないと私たちは線引きをするんですけど、これは料理も同じことで体に悪いものとか、刺激で味をごまかしてるものとか、また食べたいなあって思う料理ではなくて食べ終わって家に帰ってるときに今日もおいしかったなあ。そう思える料理がやはり最高なんだと思います。
そういったものを生み出すために、見えないところでの仕込みでの時間のかけ方とか、食材の選び方とか、またそれを手の届く金額で出すこととか、そういった見えない部分を読める感性は持っていたいなあと思うし、自分が何度も食べに行きたいなあって思うお店って、技術はもちろんあるんだけどそれにプラスして自分の仕事に対しての誠実さみたいなものはあるのかなと感じます。自分もそういう見えないところでなにができるのか、うちの場合は建築家の技術はしっかりと持ちつつ市井の人のための家を作り続けれる人でありたいなあと思ってます。設計事務所の同業者がどんどん使える材料が高級になり、家の単価も上がって箔がついていくのを見るといつまでも箔がつかないうちのような事務所は設計士としていいのか?とも思うけれど、ちょっと前まで行けてたおいしい料理を出すお店が行けなくなって代わりに食通なるものがカウンターを独占してる様のようにも思えてくることもあって、そういう技術が高くなることで特殊な世界になってしまうよりもこつこつ日々できる範囲で設計に向き合い、昨日よりもいいものつくれるようになったなあと実感できること。そういう何気ない日常を生きれる設計士としてこれからも仕事していきたいなあと思ったりはするもんですねえ🐣




