感性は嘘をつかないもんで

『建築をつくる者の心』 村野藤吾 著

ー建築家の資質ーという項でとても好きな文章があるので以下に抜粋。

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というのは、私が小さい時の話ですが、田舎ですから、隣近所が、夏になると皆水を打つわけです。私の母親は、必ず水を打たせてから、子供を学校に行かせる。

その水を打つ時、自分の前だけでなく、両隣り、お向いに水を打ち、皆水を打たないと自分の家に水をまいた気がしない。美しくないということです。これが、ひょっとしたら、私が建築家の端に加えてもらえる点じゃないかなと思います。自分の前だけでなく、両隣りまで、それから向いの方も水を打たないと、本当に美しいという感じがしない。これは私が別に言われたわけじゃないから、自分の家の前だけやれば良いわけです。それを両方と前と皆やってあげるから、私は近所の皆さんからとても可愛がられて・・・。建築家になれる資質というのは、あるいはそういうところじゃないかなと思います。

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まだ修業時代に長野県で仕事をしていた時、雪の時期は積もるので雪かきしといてねと所長に言われて家の前を雪かきするわけですが、車が1台通れるかくらいの道で家の前だけ、しかも道路の真ん中で分けたこちら側だけを雪かきするように言われたことがあります。雪かきし終わって道路を見ると、家の前の道の半分だけがきれいになっていて、いや、ここに車が来たら通りにくいし見た目に美しくないよな・・・と思ったので道路向いもきれいにしたところ、向いに住んでたおばあちゃんにありがとうねと言われて嬉しかったです。が、所長に自分の家の前だけって言ったよね、いらないことしなくていいんだよと言われてそういうものかしらと。

しばらくしてそのおばあちゃんが来て、私が漬けた漬物なんだけど食べる?と大根まるまる一本の漬物をくれて、帰って食べたらとてもおいしくてなんだか心が温かくなったという経験があります。道の真ん中で片方はきれいで片方は雪が積もってたら美しくないし、単純に自分がいいなと思ったことが美しいなあと感じることや美しさが連鎖することって大切なことなのかなと思ってますが、村野さんのような素晴らしい建築をつくっておられる方が文章で建築家になれる資質はそういうものだよと書かれていたことはよき心の支えになってます。

建築家ってなんだかよく分からないよねと言われますが、上のような感性って嘘をつかないもんだなと思ってます。私が北欧の建築家が好きなのもそういう感性があるからかなと思いますが、建物は人の感性をよく写すものだし、その人の考えてること、書いてること、つくってるものをよくよく見たらなにを美しいと思ってるか、それはかたちではなくどういう状態を美しいと思っているのかがなんとなく分かるものなのかなと感じています。

最近、ただ空間をつくってるだけではなくて、美しいと思える状態に興味がありますが、そこで重要なのってやはり感性なのかなと感じています。性能が高くて、機能的で、かっこいい建物をつくっていたとしてその作り手が使ってるうつわが大量生産品で、料理もしなくて、特にどこにも出かけてなくて、本もあまり読まず映画も見ず、経験が反映されていないただかっこよい、数値はよいという人や建物というのは個人的にはあまり信用できないところがあって。作り手として見た目は繕うことができるもんですが、感性がみえない建物って息が長くないなあと思いますし、自分が相手を信用するときもそうした感性を頼りに人を見ているからかなと。

今している仕事もお客さんの感性の部分を見てその人にとってなにが必要か考えるようにしているし、みなさんの感性をおもしろいなあと感じてるからこそ、できてくる建物もいいものができるだろうなあと仕事を楽しめてるんだろうなあと思います。暮らしに対するイメージがなく見た目を重要視する人だったらうちのホームページや写真を見ても意味が分からないだろうし、文章を読んでこそ分かるようにしてるのでややこしいのかもしれません。(そのおかげか分かりませんが素敵なお客さんが集まってきてくれてるのでいい循環ができていて仕事を楽しめてるのかもしれません)

きちんと見てくれた人に感性が伝わったらなによりだなと思ってますし、その感性を信じて仕事頼んでくれるのであればそこには嘘がなくてなにより嬉しいなあとは思ってますねえ。